ローカルの選手、監督、コーチですら来ていない練習前のグラウンドで黙々とウォーミングアップをする日本人選手。AFCカップという国際大会にも出場するラオス王者のチームと言えど、練習環境などはJリーグなどのクラブに比べればまだまだ見劣る。それでも黙々と自分のすべきことだけに集中し、チーム練習に向けての準備を進める。そんな姿勢が印象的だった山口廉史。「自分は高校でも大学でも上手い選手ではなかった」と語る彼がいかにして海外に出て、どんな気持ちで戦っているのか、海外に出た時を振り返りながら思いを聞いて来た。
山口 廉史
初めての海外は高校の交換留学
昔から海外に行きたいという思いがあったのですか?
高校生の頃に親の勧めもありアメリカで行われた夏休みのサマースクールに参加したことがありました。期間は1ヶ月半くらいだったかと思いますが、その時が初めての海外でした。課外活動の一環であったサッカーを通じてたくさんの友達とも仲良くなることが出来ました。フランス、ベネズエラ、ドイツ、ブラジル、サウジアラビアなど様々な国から来ている生徒がいて、彼らとの出会いはとても自分にとって本当に刺激的でした。
サマースクールに参加するということは英語は得意だったんですか?
いいえ、正直全く出来ませんでした。ですが、学校の先生が「将来はサッカーで海外に行くから」などと理由をつけて推薦してくれたお陰で参加することが出来たんです。会話はほとんど出来なかったのに友達がすぐにできたのもサッカーがあったお陰でしたね。あの時に、サッカーは人を繋げてくれるんだな、そして日本以外にも選択肢があるんだな、と知ることができました。
高校生でそういった経験ができたのは貴重ですね
本当にそうだと思います。サマースクールで出会った友人たちとは今も繋がっています。facebookなどで連絡も取っていたりします。マドリードのビジネススクールで学んでいる友人からは東南アジアのサッカーについて聞かれたりすることもあるので、お互い情報交換をしています。
就職活動などはしていなかったのですか?
就職活動という活動はしていませんでしたが、大学では教員免許も取得していましたし、サッカー部の主務をしていたということもあり、色々な先輩方や関係者の方が就職について心配してくれてお世話してくれていました。なので自分も大学でサッカーはやめて、就職をしようかどうしようかと悩んだ時期もありました。
なぜ就職せず、しかも海外に行くことに決めたのですか?
大学のサッカー部は本当にレベルが高く、全国から集まる優秀な選手たちばかりでした。明らかに自分よりテクニックもフィジカルも上の選手はいくらでもいましたし、自分がJ1やJ2ではやっていけないということも分かっていました。でも4年生になり試合にもコンスタントに出られるようになり、せっかくだからサッカーでチャレンジしたいなという気持ちが強くなり、海外挑戦することを決意しました。
周りの反応はどうでしたか?
周りからはそんな選択肢もあるの?という感じで思われていたと思います。やっぱり自分は主務をやっていたということもありますし、教員免許を持っていたということもあるので、Jリーグに行けなければ就職すると周りの皆は思っていたのではないでしょうか。「大丈夫?就職した方がいいんじゃない?」という反応は正直ありましたよ。
ご家族は海外に挑戦することに関して何と言っていたのですか?
家族はみんな応援してくれていました。でも最近になって聞いたのですが、親戚や周りの人からは「そんなよく知らないような国でサッカーしていて大丈夫?」みたいなことは言われていたみたいですね。笑

人との出会いで開かれたシンガポール S・リーグへ道
なぜシンガポールに行くことになったのですか?
高校を卒業して進学した法政大学ではスポーツ学部に在籍していました。そこのゼミでお世話になっていたスポーツビジネスの教授がシンガポールでサッカースクールをやっている方と知り合いだったんです。その方を通じてシンガポールでトライアルがあるということを教えて頂きチャレンジすることになりました。その教授とは以前から進路についても相談させてもらっていましたし、「東南アジアに興味ないの?」とも言ってくれていたので。そういった出会いに恵まれましたね。
シンガポールではトライアウトに参加したんですよね?
シンガポールに行ったのは12月だったと思います。オープントライアウトが開かれていて、かなりたくさんの選手が来ていましたね。基本的には外国人選手のトライアウトだったと聞いていましたがローカルの選手もいたと思います。
どのようなトライアウトだったのですか?
試合形式のゲームを中心に行っていたと思います。毎日合否が告げられて参加者の数は日に日に絞れられて行きました。週末にシンガポールU-23との練習試合があったのですが、そこで相手選手からきついタックルを食らってしまったんです。かなり痛みはあったのですがその日は何とかやりきって、後日病院に行ったら診断は踝の剥離骨折でした。その時にはかなり腫れてしまっていてプレーどころではない状態でした。もう日本に帰国するしかなかったですね。
怪我こそしてしまいましたが、その時チーム関係者からの評価は結構高かったみたいで「前期が終わったらまた練習に来てよ」と言ってもらいました。もったいないなとは思いましたが、プレーできない状態では仕方ないので日本に帰国することになりました。
日本に帰国してからどうしたのですか?
その頃に、日本のある地域リーグのクラブから話をもらっていたんです。シンガポールから帰って来てからも改めて誘っていただいたので、もうそのチームでプレーしようと決めていました。確か2月くらいだったと思います。アパートなども既に決めて行く準備を進めているところでした、そうしたらまたシンガポールから連絡が来たんです。「まだホーガン・ユナイテッドの外国人枠が空いていて、センターバックとボランチをできる選手を探している。オファーが来るかもしれないぞ。」シンガポールでお世話になっていた方からの連絡の後、実際にチームからの正式なオファーが届きました。

シンガポールでの生活
怪我してる状態だったのにも関わらず。そんなことがあるんですね
シンガポールに渡ってメディカルチェックをしたのが2月の下旬だったと思います。怪我したのが12月のトライアウトだったので、やっと治ってぎりぎりプレーできるかなという状態でした。正直言って、契約できたのは本当に幸運でした。怪我している状態というのもありますが、シンガポールではローカルチームに入るのは難しいんです。アルビレックスシンガポールの選手達もローカルチームに移籍することを目標の一つにプレーしている選手は多いと思うんですが、外国人枠の問題だったりで良い選手だからって簡単にローカルチームに入れるわけではない。僕はかなりラッキーだったと思いますよ。
シンガポールでの生活はどうでしたか?
シンガポールでの生活は特に困ることもなく、快適でした。チームメイトの外国人選手は日本人とスペイン人だったのですが、二人ともすごく良くしてくれていたので。ローカルの選手達もすごくフレンドリーでチームにも溶け込みやすかったですね。
サッカーでの違いはありましたか?
自分が持っていたイメージとの差があったのだと思いますが、練習から結構荒いプレーが多く最初は驚きました。ローカルの選手の中にはマレー系の選手も多く、彼らは体格的には結構大きいですし、練習からかなり激しいなと感じました。
また、それまで自分は日本国内のサッカーしか経験がなかったわけなんですが、高校でも大学でも常に周りは上手い選手ばかりでしたし、いつも簡単にプレーすることを意識していました。ボールを奪ってそのあとは周りに確実に預ける、それが自分のスタイルでした。でもシンガポールでは外国人選手として攻撃に参加して、組み立て、自分で局面を打開して行くようなプレーも必要だなと感じ、そこは強く意識するようになりました。外国人としてプレーすること、海外でプレーすることはそういうことなんだと考えるようになって行きましたね。
