未払い、差別、あらゆる経験を糧にタイリーグ屈指の選手へ


全てが揃う日本のような整った国は珍しい。そのことすら外に行かなければなかなか気づくのは難しいのかもしれない。契約期間が全うされ、不祥事などを除けばチームからの不当解雇などはほぼない。そんなJリーグのような環境は世界では少ないのだろう。今シーズンタイ1部で出場停止以外の全ての試合でフル出場を果たした山崎はタイで活躍する日本人の中でも屈指の評価を受ける一人となった。欧州の有名クラブから移籍してくるビッグネームも珍しくない今のタイリーグで、活躍するということは至難の技だ。そんな山崎はこれまで紆余曲折を経て今の居場所を掴み取っている。大学ナンバー1にもなった大学サッカー。そして東京都リーグ。そこから決意した海外挑戦。当時を振り返って今までのキャリアを語ってもらった。

山崎健太

1987年生まれ、東京都出身。 駒澤高校から駒澤大学へ進学。同大学サッカー部では1年時から出場機会を得て、大学選手権優勝などに大きく貢献。卒業後は当時東京都リーグに所属していた東京23FCに加入。仕事と両立しながらサッカーを続ける。2013年にタイ2部のTTMカスタムズに移籍、半年後にはモンテネグロ2部のFKベラネ、翌シーズンには1部のFKグルバリに移籍。そして2015年にタイのウボンUMTへ移籍、現在も同チームに所属。

不安、このままでいいのだろうか

まず初めに海外に行くきっかけについて聞かせてもらえる?

大学サッカーが終わった時に目標にしていたJリーグには行けないということになってしまったんだ。それでも、そこまでサッカーを続けてきたからプロとしてサッカーをしてみたいという気持ちはあった。海外に関してはサッカーとは関係なく憧れみたいな気持ちはずっと持っていて、東京23FCでプレーしている時に『このままここでプレーしていて良いのかな。これだったら今じゃなくても出来るんじゃないか。』とモヤモヤと思い始めたのがきっかけかな。

海外に行くための繋がりとか人脈が当時あったの?

海外については何も分からないという状態だった。だからとにかく色々な人に聞いて回ったよ。大学時代の知り合いで当時インドでプレーしている先輩がいたから、彼に連絡したりしたね。そういった中で紹介して頂いた人との繋がりでタイに行くことが決まったんだ。

海外に挑戦すると決めた時に周りの反応は何かあった?

家族も友達もみんな応援してくれたよ。でも自分の中で葛藤はあったね。周りのみんなは就職して安定した仕事をしていたし、サッカーだけ続けていてこのままでいいのかな、辞めることになった時に何も無い状態で就職することになるんじゃないかっていう不安はあったのを覚えているよ。

今はいつ解雇になるか分からない状況でサッカー選手をやっているしね、明日急に『クビです』と言われる可能性だって全然あると思う。だからその感覚は今でも常に持っているよ。

それでも海外で挑戦したいという気持ちが強かったんだ

東京23FCでプレーしていた時は本当に楽しかったんだ。東京で遊ぶのも楽しかったし、大学サッカーで活躍してきたレベルの高いチームメイトとプレーするのも楽しかった。だから『このままでもいいかな』という気持ちに自分が流れていることに気付いたんだよね。環境に流されて、本当は自分の中にやりたいことはあるのに、自分の中で今の自分を正当化させているような感覚かな。

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リンゴと20セントのパン1枚で過ごしたこともあった

最初タイではうまくいかなかったんでしょ?

タイでは契約こそすぐに出来たんだけど、リーグ戦のメンバーに登録してもらえなかったんだ。外国人枠も今より多い7人で、それ以上の10人くらいの外国人が契約していたんじゃないかな。だから練習をするだけの毎日だったよ、アウェイの遠征にも帯同出来ないから留守番ばかりでね。

だからもうそのチームは出ていきたいという気持ちはあったんだけど、後期に入るタイミングでチームとして結果も出ていなかったということもあって契約解除になると言われたんだ。だから次へのチャレンジをするには良いタイミングだと思ってモンテネグロに行くことを決めたんだ。

モンテネグロはどんな場所だった?

モンテネグロは小さい国だからチームは地域密着な雰囲気があったよ。街を歩いていればみんな『頑張れよ』と声をかけてくれるような温かい雰囲気だった。特に最初に所属したベラネという街はそんな所だったね。冬はすごく寒くて苦労したんだけど、その分人は暖かった。次に移籍した先のFKグルバリではブドヴァという街に住んでいたんだけど、アドリア海に面した綺麗な街だった。近くにビーチなどもあったりしてオフの日には結構出かけたりもしたよ。

オフの日にはよく遊びに行ったというコトルの旧市街

サッカーでの違いは?

球際で勝てるか勝てないか、そういうフィジカル的な強さは重要視されていたと思う。1対1で負けていたら「使えないな」という雰囲気にすぐなってしまうし、でもそこで勝てれば一気に評価してもらえる。それが特徴なんじゃないかな。

良いプレーした時は良いんだけど、負けた時には街を歩いていても「ダメだったな」とか言われることもあった。基本的にはみんな優しいんだけど、みんなサッカー好きだからね。笑

モンテネグロのサッカーは外から見ると一見簡単に見えるんだけど、中に入って実際にやるのは難しい。フィジカルも強いし、テクニックだって相当高いと思う。その辺は日本とは逆に感じる。日本のサッカーは外から見てるとテクニックもあるし、速いし、上手に見えるよね。ノープレッシャーの中での技術はすごく高いという印象がある。でもモンテネグロの選手たちは練習で上手くできない選手でも、試合になると能力が上がるんだ。そこはメンタル面からくる強さなのかな。そういう強さがある選手が多かった。

苦労したことも多かったと聞いたけど

最初に契約したベラネでの生活は本当にきつかった。寒いとは言ったと思うんだけど、部屋の暖房が30分以上連続でつけていると動かなくなったりして、寝る時は重ね着した上にダウンを着て布団にくるまって寝ていたよ。かなり雪も降る場所だったし、本当に寒かった。

あとはチームが契約した内容の『給料、食事、家賃』を出してくれなかったことだね。家主には「チームが家賃を払わないから出て行ってくれ」と言われたりもしたし、契約していてフリーで食事できるはずだったレストランにも「もう食事を出せないよ」と言われた。おまけに給料もなかなか支払われないから、お金も厳しくて近所の人がくれたリンゴと20セントのパンだけで過ごした日が続いたこともあったな。庭になっていたブドウを食べたりもしていたよ。笑 懐かしいね。笑

そんな状況だったけど、楽しかったなと思えるのは壮馬が一緒だったからというのは大きいと思う。さすがに一人だったらあの状況で楽しむのは無理だった。笑

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チームメイトの大谷壮馬と

そして、アジア人差別

チームメイトとの関係はどうだった?

ベラネでは生活面での苦労はあったけど、チームメイトは本当に良い奴ばかりでみんな良くしてくれたよ。一緒に川遊びに行ったりもしたね。

でもグルバリでは違った。モンテネグロでは基本的に普通にあることだと思うんだけど、アジア人が差別的に見られたりすることがあるんだ。街を歩いていてからかわれたり、相手のサポーターに酷いことを言われたりね。でも、そんなことは全然気にならないんだけど、ルームメイトはきつかった。最初に言っておきたいんだけど、ほとんどの人は本当に良い人ばかりだったよ。でも運悪くそういう人とルームメイトになってしまった。彼は自分と同じポジションでサブだったんだ。自分のせいで出場機会がなくなったというのもあって、いつも自分に悪口言ったり、他の奴と一緒になって馬鹿にしてきたりしたんだ。

だから部屋には帰りたくなくてね。練習から帰ってきてすぐにカフェに行って、カフェが閉まるギリギリまでいて、家に帰ったらベッドに入ってすぐに寝るという生活をしてたよ。笑

一度、部屋の中で喧嘩になって、隣の部屋にいたコーチやスタッフが止めに入ってきたこともあった。あの時は試合の前日だったんだけど、彼が夜中に酔っ払って帰ってきたんだ。それで寝てる俺に絡んできたから我慢できなくてね。そういうこともあってそのチームから離れたいなとは思っていたんだ。

試合にはずっと使ってもらっていたし、チームメイトにはモンテネグロの現役代表の選手もいてレベルも高くて楽しかった。それ以外の若い選手もU-23代表の選手とかだったしね。認められるとパスも明らかに回ってくるし、サッカーの面ではすごく楽しめていたんだけどな。

チームメイトの大谷壮馬と、近くの川で。

後記

『楽ではなかった』と楽しげに語る山崎に悲観するような雰囲気は微塵も感じなかった。過去は過去、今は今。ぶれない芯の強さが、この後のタイでの躍進に繋がったのだろう。この後、山崎は当時タイ3部に所属していたウボンUMTからのオファーを受け移籍することになる。そしてチームと共にトップリーグへの階段を一気に駆け上がることになる。次回のインタビューではタイでの躍進について聞いていこうと思う。

 

 

 

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