元U-20日本代表、流浪のストライカーが進む自分だけの道 第1章


『調子乗り世代』と呼ばれたFIFA U-20W杯2007に参加した若き日本代表を覚えているだろうか彼らと同世代だった筆者は、本屋に行ってはサッカー雑誌に載っている同世代の代表メンバーの名前を妬ましい気持ちで眺めていたのを思い出す。

槙野智章・内田篤人・森重真人・柏木陽介・香川真司といった現在の日本代表やJリーグ各チームで中心選手として活躍する選手たちの名前がそこにはあった。そしてその中にあった日本代表のストライカーとして活躍していた小澤竜己という選手の名は、その名前を雑誌などで見なくなってからも華々しいU-20世代のキャリアと共に筆者の記憶に残っていた。

2017年の前期をタイ2部のランパーンFCで、そして後期からは日本の東海1部リーグ、トヨタ蹴球団で過ごした小澤竜己。今までの彼のキャリアについて、そしてこれからについて聞くことができた。

 

小澤竜己

1988年生まれ、名古屋出身。名古屋FCから青森山田高校に進学。1年時からエースとして活躍し、3年時にはキャプテンとしてインターハイ優勝に貢献。卒業後はFC東京に入団。その後JFLのガイナーレ鳥取、ブラウブリッツ秋田、そしてタイ、ラトビア、インド、タイと各国のチームを渡り歩く。

自分だけの道を進んでいきたい


海外でプレーしたいと思うようになったきっかけは?

FC東京での2年目のシーズンだったと思う。ファジアーノ岡山で監督をしている長澤徹さんという方が当時FC東京にいて、若手選手の面倒をよくみてくれていたんだ。

その時に、過去にFC東京でプレーして後に海外リーグでも活躍した福田健二さんや李忠成さんの話をしてくれた。『お前はあいつらと同じような匂いがする、海外挑戦も面白いんじゃないのか?』ってね。海外に興味を持ったのはその影響が大きいと思う。

FC東京からガイナーレ鳥取に移籍しましたよね?

プロ2年目はグロインペインや足首の怪我もあって試合にも出れず、U-20W杯のメンバーからも落選してしまった時期だった。あの時はまず怪我を治す必要があったし、今後どうしていくかということを色々考えた時期だったね。

そして、自分が望むようなキャリアを築くにはしっかり試合に出て、そして得点を取る、それを最優先に考えるべきだと思った。それで自分がどこまで出来るか挑戦したいという思いでJFLのガイナーレ鳥取に行くことに決めたんだ。

世代別の日本代表として活躍した小澤

J1からJFLへ


鳥取でのシーズンはどうでしたか?

鳥取ではチーム最多の11得点を取ることができたんだけど、チームはJ2昇格を逃してしまったんだ。そして翌年への契約更新に関しても満足出来る提示を受けることができなかった。

ストライカーとして結果を残したという自負もあったし、どうしても納得できない自分がいたんだ。J1からJFLにカテゴリーを落としたという悔しさもあったと思う。あの頃はそういったモヤモヤとした違和感を感じていた時期だったね。結局、鳥取では3年間プレーしたけど、最後には出場機会も減って契約満了になったんだ。

すぐには海外移籍を目指さなかったのですか?

JFLの秋田に移籍してすぐの頃、知り合いの方がスロバキア1部のクラブからのオファーを持って来てくれたことがあったんだ。自分にとっては願ってもない話だったんだけど、秋田と既に契約していたし、条件や契約について自分が悩んでいる間にその話は流れてしまったんだよね。

今だったら保証なんかなくても、迷わず飛び込んでいくんだけどね。

当時の自分にはその勇気はなかったんだ。

当時とはその辺の感覚も変わりましたか?

今だったら「契約満了」と言われたら、『ああそうですか、ありがとうございました。じゃあ次のチーム探すか!』って感じになるけど、日本にいた頃は全然違った。

悲観的な感覚しかなかったと思う。そういう意味では自分も少しは強くなれたかなと思うよね。

FC東京時代の小澤 (写真提供:小澤竜己)

外国人として海外リーグでプレーする難しさ


いよいよ海外へ

最初に行ったのはフィリピンだった。チームから練習参加のオファーレターを貰ってフィリピンに向かったんだ。でも、現地に着いて言われたのは

「今年はもう練習しないよ」の一言だった。

でも練習はないのに選手は毎日クラブハウスに来ていたんだ。給料が遅延されていたらしく、選手たちは支払いを求めてクラブハウスに集まり、オーナーが来るのをひたすら毎日待っていたようだった。あの雰囲気にはカルチャーショックをうけた、ちょっとこれはきついなって。

それで一度日本に戻って今度はヨーロッパに行くことにしたんだ。

ヨーロッパのどこに行ったのですか?

まず向かったのはラトビア。でもそんな時、ガイナーレでお世話になったタイ人監督のヴィタヤさんから急に連絡があったんだ。

「すぐタイに来い!」ってね。

自分が海外挑戦していることを人伝いに聞いて連絡してくれたみたいで、すぐにタイ行きのチケットを取ったよ。

タイではチョンブリFCの練習にしばらく参加していたんだけど、なかなか契約の話にならなくてね。移籍ウインドウの終わりも近づいてるのに10人ほどの外国人がテストに来ている状態だったし、『これどうなるの?』と不安に思っていたんだ。

そしたらウインドウが閉まる前日になって「パタヤに行って練習試合に参加して来い」と言われ、何も分からない状態でパタヤへ行ったんだ。

そこで45分で2ゴール、試合後すぐにパタヤユナイテッドとの契約が決まった。サインしたのはウインドウの締め切り数時間前だったと思う。あの時のバタバタ感は今でも忘れられないよ。

パタヤ・ユナイテッドと契約した小澤 (写真提供:小澤竜己)

初の海外リーグでのプレーはどうでしたか?

結局パタヤではシーズンが始まって間もない頃に中足骨を骨折してしまい、あまり活躍はできなかったんだ。初めのタイミングでインパクトも残せなかったし、海外リーグで外国人としてプレーする難しさを感じたよ。

サッカーに関して日本とのギャップはありましたか?

レベルどうこうの話ではなくて、同じサッカーなのに全然違うんだなと思ったかな。

プレーする場所は関係ない


J1や世代別代表でもプレーしてきて、東南アジアでプレーすることに抵抗はありませんでしたか?

自分は幼稚園からサッカーを始めたんだけど、小学校、中学校、高校でもずっと、試合に出続けてゴールを決め続けて来たんだ。そしたら世代別の日本代表にも呼ばれるようになって、プロにもなることが出来た。

そしたらFC東京で初めて試合に出れないということを経験したんだ。自分がエリートだなんて思っていないけど、試合に出れない時にはどうしたら良いか、何をすべきか、当時の自分は分からなかったんだよ。

その時に初めて感じたのが『試合に出たい!』という自分の感情だった。

お金や環境、レベルの問題ではなく、一人のサッカー選手として、毎週末の試合に出てゴールを取るために必死で走る、そして試合でしか味わえないあの気持ちの高まりを常に感じていたい!そういう自分の中の想いを感じだんだ。

だから背伸びして実力以上のチームに入るのではなく、しっかり自分が試合に出場してチームの力になれる場所でプレーしたいと考えるようになっていた。そこで活躍すればその上に続く道も自然に開かれるはずだから。

高校卒業後に出場機会を考えてチームを選ぶこともできたかもしれないけど、その気持ちを経験したことがなかった自分にとってその選択肢は見えていなかった。それは今だからこそ思うことであって、やっぱりそれは色々経験してきたからこそ言えることだと思う。

だから東南アジアでプレーすることに関しても、当時も今も何の抵抗も感じていないよ。

(写真提供:小澤竜己)

後記

自身初の海外リーグでのシーズンは1ゴールもあげることもなく、怪我による契約解除という形で終わった。この時23歳。しかし、もう日本でプレーするという選択肢はなかった。プロ2年目の時に思い描いた、自分にしかできないキャリアを過ごすため。日本で怪我を癒した小澤はすぐにヨーロッパへと向かう。次回の続編ではヨーロッパでの挑戦について語ってもらった。
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