中学を卒業したばかりの15歳が高校に入学し、高校サッカーのレベルの違いに愕然とする。そんな話はよくあることだ。
しかし小澤竜己が高校に入学し最初に受け取ったユニフォームの背番号は10番だった。それも全国クラスの名門、青森山田高校での話だ。1年生が名門の10番を背負う。どう考えても上級生からの反発もあったはずだ。それでも小澤はゴールを取り続けることで周囲を納得させて来た。そしてプロになってからもゴールを取り続けることで自分の道を切り開いて来た。
J1、JFL、そして海外。タイでの海外リーグ初挑戦を不本意な形で終えた小澤は、次なる挑戦の地ヨーロッパへと向かった。
小澤竜己
ヨーロッパへ行かなければ分からないことがたくさんあった
タイで怪我をして帰国。その後
日本での治療後には状態もだいぶ良くなって、それでまたラトビアに向かうことにしたんだ。一度トライアウトに行っていたということもあってすぐに契約できるという話になってね。代理人と話合ってヨーロッパの1部でプレーすれば経歴的にも良いからと。それでシーズン最後の数ヶ月はラトビア1部のグルベネというクラブでプレーさせてもらうことになったんだ。
ヨーロッパでの経験
色々な国のクラブに営業をかけたよ。その中で色々気づくこともあったね。
経歴はやっぱり大事。年齢も若くて代表歴があってJ1所属とかだったらクラブ側の反応も変わっていたんじゃないかな。自分はJFLで4年もプレーしていたし、ヨーロッパの中ではすでに若い年齢でもなかったからね。
日本だとあまり意識する事もないけど、海外ではそれだけでチームが決まることもあるし、大事な要素の一つだよね。
自分のプレー映像もそれまで持っていなかったんだけど、映像がなければ売り込みさえ出来ない場合もある。プレー以前にそういう海外サッカーの常識みたいものも知ることができたよ。
若い選手がヨーロッパでプレーする意義は大きい
自分でクラブに売り込んで行くんですね
そうするしかないからね。でもなかなかチームが決まらなくて、早くプレーしたいという気持ちもあってポーランド4部のクラブに決めたんだ。
ポーランドは当時外国人枠がなかったし、プレー次第で上位リーグにステップアップができる可能性もあるという話を聞いたんだ。だからまずはチャレンジしてみようということになった。結局そのチームでは2年半、もう一つ移籍した先のチームで半年間プレーすることになったよ。
ポーランでの生活はどうでしたか?
ポーランドでは安月給ではあったんだけど一番幸せを感じていた時間だったと思う。私生活でもサッカーでも。
あの頃は一番楽しみながらプレーしていたと思うし、勉強もたくさんしたし、普段の生活でもいつも笑顔でいられたんだ。ポーランドの永住権はどうやったら取れるんだろうって今でも考えているよ。
そんなにも良い国だったんですか?
彼らはミニゲームするにしても勝ち負けにこだわって必死なんだ。くだらないことでも本気になって怒ったり喜んだり、自分の感情に正直なのかな。嫌いなものは嫌い、好きなものは好きだと伝える。その感覚が自分には凄く合っていたのかもしれない。思っていることを伝えたことで仲がこじれるような関係ではなくて、しっかりとした信頼関係をみんな築いているんだ。
練習で喧嘩しても終われば何もなかったかのように友達になれる。向こうではそれだけ本気でやってるということが大事なことで、それで意見がぶつかることは仕方ないよねという感覚が皆にあるようだった。
そういうのは日本でも東南アジアでもなかなかないよね。その中で自分は凄く楽しく毎日を過ごすことができたんだ。

サッカーでの違いは感じましたか?
ポーランドでやっている時に自分でプレー動画の編集を初めたんだけど、その時に思ったんだよ。
ミスした時の映像は切り捨てちゃえば良いんだから、ミスなんて気にしないで自分の良いところをもっと出すべきなんだって。
ポーランドの選手たちはミスしてもそれを引きずったりしないし、自分の特徴を出すということを凄く大事にしている。だからチャレンジしたもん勝ちだなって。安全なプレーを選ぶのではなく、リスクを負ったプレーをしなきゃいけないなと感じたよ。
その後、なぜポーランドからインドに移籍したのですか?
2年目の途中からかな、外国人に対するルールが変更になったんだ。それでちょうどその頃、秋田時代にチームメイトだった松ケ枝泰介くんという先輩から連絡があったんだよ。彼が当時所属していたインドのチームからオファーという形で話を持ってきてくれてね。本当はポーランドで永住権を取りたいと思っていたから5年間はポーランドいたかったんだけどね、やっぱりインドでの給料は当時の自分には魅力的だった。
だから当時の代理人には凄く迷惑をかけてしまったんだけど、チームとの契約を解約してインドへ行くことに決めたんだ。お金を貯めてポーランドに戻って来ようと思ったんだ。

サッカーでの出会いが繋げてくれた
インドでの新しい生活はどうでしたか?
インドではムンバイFCというチームと契約したんだ。
ムンバイはすごく都会だし、想像していたよりも過ごしやすい場所だったよ。食事や住居はクラブが用意してくれたし、近くには日本食レストランもあって、よくチームメイトとも食事に行ったよ。インドは英語が通じるからチームメイトとのコミュニケーションでも困ることはなかったね。
ただIリーグは1月から5月という短期間のリーグ戦で試合数も全部で16試合くらいしかなかったんだ。だから生活に慣れてきた頃にはシーズンが終わってしまってね、もう少しやりたかった。チャンスがあればまたやってみたいなと思ってるよ。
ヨーロッパとアジアではどういう違いを感じますか?
ヨーロッパでは外国人であってもチームに入れば“チームメイト”という感じで他の選手と対等になるんだけど、アジアではローカル選手と外国人選手は別物っていう雰囲気を感じる。 “チームメイト”ではなくて「外国人助っ人」。外国人にかかる責任や期待はローカル選手とは全然違う。そこの認識には大きな違いがあるような気はするな。
どこの国に行っても必要とされることは本当にすごいことですね
自分は人との繋がりに恵まれていたんだよ。タイに呼んでくれたのはガイナーレ時代の監督だったビタヤさん。インドに呼んでくれたのは秋田時代の先輩の松ケ枝泰介くん。そしてインドの後にプレーすることになったタイのランパーンFCにはポーランド時代のチームメイトで今は日本で代理人をしている友人が繋げてくれたんだ。
そういった人達の助けがなかったら今まで続けて来れなかった。今までサッカーを続けて来たから彼らのような素晴らしい友人たちと出会えて、その彼らのおかげでサッカーを続けることが出来ている。そしてサッカーを通して色々な場所に行くことで、たくさんの新しいことを知ったり、感じたりできているんだ。感謝しなくちゃいけないね。
