名門大学体育会サッカー部主将が26歳で海外挑戦した物語 前編


(写真提供:大村真也)

筆者が大村真也という日本人センターバックを認識したのは2016年のことだった。2015年にフィリピンのUFLカップを制したカヤFCが、AFCカップ2016への初出場を果たし、香港のチームと同組となったことで、通い慣れた旺角スタジアムでの試合観戦の機会を得た。

試合当日の朝にカヤFCに日本人センターバックがいることを知り、知人を通じて香港入りしていた大村とつながり、試合終了後のベンチの裏でほんの数分間言葉を交わすことができた。敗戦を喫した直後に筆者の元に歩み寄るという状況にも関わらず、大村は丁重に応じてくれたこと、そして歩み寄ってきたファンに対しても、流暢な英語で紳士的な態度で接していたことが強く印象に残っていた。

あれから月日が経過したが、大村が現在もディフェンスリーダーとしてチームを牽引していることを確認した上で、マニラで取材を受けてもらうこととなった。(フットボールライター 池田宣雄・マニラ)

大村真也

1984年生まれ。愛知県出身。中京大中京高校から中京大学に進学。体育会サッカー部では主将を務める。大学卒業から約3年ほど一般企業に勤めていたが、オーストラリア3部相当のフレーザーパークFCでプレーを再開。2011年途中からフィリピン1部のカヤFCに加入。2015年に国内カップ大会で初優勝を果たし、自身も最優秀選手賞を受賞。翌2016年はAFCカップに出場した。マニラ在住。

体育会サッカー部主将の進路はスポーツジムの契約社員

中京大中京高校から中京大学に進学しました。基本的にはボランチでしたが、状況に応じてセンターバックもやっていましたね。僕らより少し上の世代がインカレで優勝したりすごかったんですけど、僕らの時はそこまでは行けませんでした。インカレでの最高成績は4位でした。

卒業する時点ではサッカーでの進路はありませんでした。毎年のようにJリーグやJFLに選手を輩出する大学でしたが、自分自身も選手としては難しいだろうなと思っていましたし、監督に相談するような状況ではなかったです。

ただひとつだけ、監督がスポーツジムの関係者の方を紹介してくれて、契約社員として働かないかというお話をいただきました。その会社が小学生向けのサッカースクールをやっていたので、コーチとして採用してくれたんです。

指導は楽しかったですよ。大学でサッカーを専攻していたので、授業でJFAのC級ライセンスを取得していましたし。今では失効してしまいましたが、マニラでも子供たちを指導しています。

当時は、将来何をしようかとか真剣に考えていなかったこともあって、半年くらい経過した頃には、このままスクールコーチを続けて行くのが自分にとってベストなのかと考えるようになりました。楽しいだけで続けて良いのかと。

実際、契約社員という立場でしたので、契約期間の満了を持って辞めることを会社に伝えました。ちゃんと会社勤めをしてしっかりと生計を立てることにしたんです。色々な人に相談したんですけど、中学の時の監督が地元の倉庫会社の役職についておられて、1年遅れの新卒という形で正社員として採用してくれることになったんです。

(写真提供:大村真也)

倉庫会社への就職、祖父の言葉で蘇るサッカーへの思い

実家から車で15分くらいの倉庫会社でした。フォークリフトを操縦したり、現場と事務で忙しい職場でした。あの頃はもうサッカーから離れていたのですが、倉庫に出入りしていた運送会社の方々がやっている草サッカーチームで、試合の日だけボールを蹴っていました。

ただ若いという理由だけでフルタイム出場させられていました。「まだ走れるでしょ~」とか言われていましたが、トレーニングなんてまったくしていなかったので、試合の後は燃え尽きた廃人のようになっていました。

それから2年程は、一般の社会人の方々と同じような生活を送っていました。仕事終わりに飲みに行ったり、結構遊んでいましたね。ずっとサッカー中心の学生時代でしたから、楽しくて仕方なかったですよ。正直、当時はJリーグとかあまり興味がなくてほとんど観てないですね。

でも、たまたまテレビで観ていた試合に、元チームメイトとか対戦相手にいた選手たちが出場していると、「あ~まだやってるんだな~」みたいな感情は抱いていました。先輩や同期が名古屋で試合がある時は観に行くようになって、プロの世界で必死にプレーしている姿を観る度に、自分はこのままで良いのかなと思うようになっていたんです。

その思いを行動に移すきっかけになったのは祖父の死去でした。祖父は地元では少し名前の通った人だったので、葬儀に1,000人くらい来ることになったんです。そこで、遺族を代表して謝辞を読む役を任せられてしまいまして。祖父の生前の思い出を書き出しているうちに、祖父が言っていた言葉を思い出したんです。

「ひとつのことを続けて行きなさい」

敢えて文字にしてみると、重みとか深みのある言葉だと気づきました。自分が続けてきたこと、それは今の仕事ではなくてサッカーなんだよなと。大学を卒業するまで続けてきたけど、結局、僕は一度も挑戦らしい挑戦をしていないんじゃないかと。

就職でお世話になった上役(中学時の監督)には申し訳なかったのですが、きちんと業務の引き継ぎを終えて退職しました。それから挑戦する場所を探しながら、知り合いが監督をしていた名古屋の大学で本格的なトレーニングを再開しました。

徐々にフィットネスは上がっていたのですが、肝心の挑戦する場所はなかなか見つけられなかったんです。22歳の時に行く場所がなかった選手ですし、一度プレーをやめていた訳ですし。日本にはサッカーだけで飯が食える場所なんてもうないですよね。

そうなったら、日本を離れるという選択肢しかありません。色々調べているうちに、オーストラリアならワーホリのビザで滞在できて、州リーグのチームのトライアウトに挑戦できるということを知ったんです。

(写真提供:大村真也)

再びプレーする場所を求めてオーストラリアへ

今よりも情報が乏しい時代でしたので、オーストラリアが一番行きやすい場所だと即断して、シドニーの仲介業者とトライアウト挑戦の話を始めました。とりあえずですが、現地に行けばトライアウトに参加できるチームが見つかったので、すぐにシドニーに行きました。

幸いにも、そのチームのトライアウト初日に合格が告げられました。他のチームでも挑戦できるはずでしたが、まずは条件云々よりも、プレーする場所を得ることが最優先でしたので、出場給と勝利給のみの低い条件でしたが契約しました。

ニューサウスウェールズ州の2部リーグ(Aリーグを1部とするとオーストラリアの3部相当)に所属するフレーザーパークFCというチームでした。ポルトガル系移民のコミュニティが運営するチームでしたね。

トライアウトを受ける時にポジションを聞かれたのですが、本当はセンターバックだと言うつもりでしたが、チームのセンターバックが2メートルくらいの巨漢揃いだったので、これじゃあ不合格になるかもと思って、とっさにボランチだと説明しました(笑)。

オーストラリアは物価が高いと聞いていたので、安いシェアハウスを自分の足で探しました。チームは生活については何もサポートしてくれないので、お金の心配はありました。日本からの渡航費用も、部屋代も飲食代もすべて自腹です。

州リーグが始まりましたが、幸いにもほぼすべての試合に出場することができました。確か22試合くらい出られたので、出場給と勝利給が入ってきました。日本で働いたお金と合わせて、ギリギリでしたがなんとか生活できました。

ただ、ワーホリのビザを更新するには色々なハードルがあったので、フレーザーパークFCで2年目のプレーをすることは難しい状況でした。余程の条件でプレーできるチームを探すか、他の国に行くかの決断を下さなければならない状況がやってきました。

オーストラリアのリーグは、Aリーグとその下の州リーグの運営が異なり、チームの昇降格はおろか、完全に乖離している状態なんです。州リーグで活躍すればAリーグのチームへの可能性があるのかと言えば、ほとんどチャンスはないです。

2年目のビザ取得のハードルがどうしてもクリアできそうもなかったので、次の現実的な場所としてタイに行くことを考えていました。現地の情報もある程度入ってきたので、またトライアウトから挑戦してみようと。

一方で、フレーザーパークFCのチームメイトに、オーストラリアとフィリピンのハーフ選手がいたので、彼からもフィリピンの情報を入れていたんです。2011年当時のフィリピンは、UFL(ユナイテッドフットボールリーグ)が始まっていて、フィリピン代表チームもアセアンの大会で頭角を現していた時期でもあり、盛り上がり始めている状況でした。

(つづく)

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