自分にしか見れない景色を見てきた男のストーリー 前編


写真提供:下野淳

下野淳という日本人ボランチのプレーを初めて見たのは2013年のことだった。下野は2009年から4シーズンに渡りアルビレックス新潟シンガポールでプレーした後に、Sリーグのローカルクラブであるウッドランド・ウェリントンに移籍。リーグでも下位に沈む弱小チームで孤軍奮闘する下野は、戸田和幸、櫻田真平、乾達朗らを擁する強豪ウォリアーズFCを相手に果敢なチェックで徹底抗戦を演じ、こぼれ球からの強烈なミドル弾を自ら突き刺すなどチームに大きく貢献する。

 下野はその後もSリーグを主戦場とするものの、クラブのリーグ撤退騒動や外国人枠の削減などの影響もあり、ミャンマーやモルディブの劣悪な環境下でのプレーを余儀なくされる。給料の未払いが恒常するような不遇の時期を過ごした後、2017年からはフィリピンに活躍の場を移している。JPVマリキナFCで2年目のシーズンを戦う下野が、トレードマークのポニーテールを揺らしながら約束のカフェに姿を現した。【フットボールライター・池田宣雄(マニラ)】

下野淳

1988年生まれ。神奈川県大和市出身。帝京大学を中退してJAPANサッカーカレッジに進学。2009年からシンガポールに渡り、アルビレックス新潟シンガポール、ウッドランド・ウェリントン、ホウガン・ユナイテッドなど、Sリーグの舞台を主戦場とした。ネピドーFC(ミャンマー)、ヴィクトリーSC(モルディブ)を経て、2017年からフィリピンのJPVマリキナFCでプレーしている。30歳となる今シーズンはゲームキャプテンを務める。マニラ在住。

ロナウジーニョに憧れた高校生

僕は神奈川の県立高校でサッカーをしていました。強豪とは言えない高校でしたが周辺では一番強いところでした。当時はロナウジーニョ全盛の時代で、僕もかなり影響されてトップ下とかワイドな位置とかで自由にプレーしていました。

神奈川のほとんどの高校は、高3の夏休みまでに冬の全国高校選手権の県予選が終わってしまいます。僕たちも桐光学園に負けてしまって、夏休みの直前にサッカー部を引退しました。特にサッカーでの進路はなかったのですが、一度練習試合で対戦した帝京大学が良いサッカーをしていたので、学校推薦の形で帝京大学に進学しました。

もちろんサッカー部に入るつもりでしたが、サッカー部が東京都リーグに降格していて、ここで4年間やったところで何があるのか、と考えてしまって。漠然とプロサッカー選手になることは描いていたのですが、たぶんここではないなと。

自分の甘えもあったのですが、サッカー部にも入部しないで授業にもほとんど行かず、居酒屋とかラーメン屋でバイトしながら遊んでしまったんです。それで1年の夏に中退を決意しました。

写真提供:下野淳

日本の底辺の底辺にいた男の進む道

地元のチームでは時々ボールを蹴っていました。毎日練習していた頃と比べても、そんなにコンディションは落ちてないなと思っていました。自分はどうすればプロの世界に辿り着けるのか、本気でサッカーをする場所を探していました。

そんな時に小・中学時代の先輩から、JAPANサッカーカレッジはどうか、と言われ調べてみたら、ギリギリ間に合いそうな感じでした。それで両親に自分の意思を伝えて大阪開催のセレクションに参加して、入学することになりました。

ギリギリのタイミングで入学が決まったので、学校の状況は分からなかったです。僕の先輩は誰もいないし、進路として真剣に情報収集していた訳でもないし。何も知らないまま新潟に向かいました。ですから、トップチームに契約選手がいることも、全国レベルの高校出身者がいることも、新潟に行ってから知りました。

実際に僕が振り分けられたのは、新潟県リーグに所属する3軍のチームでした。正直、思っていたのと違って面喰らっていたのですが、両親や先輩の手前、もう必死で、死に物狂いでやらないとダメなんだと。自分で言うのも何ですけど、僕のストーリーはJAPANサッカーカレッジから始まったようなものですね。

中盤のオールラウンダーへの転身

3軍のコーチが僕を気に入ってくれて、最初はサイドとかトップ下で使ってくれました。僕も3軍で結果を出して、できるだけ早く北信越リーグでやってるトップチームに上がりたくて。当時の北信越リーグは、松本山雅とか、長野パルセイロとか、ツェーゲン金沢とかもいて、すごく熱いカテゴリーでしたから。

でも、サイドとかトップ下のポジションでの自分のプレーに違和感を感じていました。やっぱり、高3の夏から1年半以上、ちゃんと練習してこなかったので感覚がなかなか戻らなくて。それでコーチからの助言もあって、中盤のすべての位置で試して行こうということになりました。実際には身体的なコンディションが落ちていたことにも気づきましたし。

シーズンの最後には2軍の練習にも呼んでもらえるようになりました。それからシーズンが終わったタイミングで、2年目はシンガポールに行かないか、とチームの人に言われたんです。毎年10人くらいの学生選手が行くのですが、その年はちょっと希望者が少なかったようで。

当時は今と違って、アルビレックス新潟シンガポールから、アジアのプロチームに移籍を果たした例は多くなかったのですが、レベルの高い契約選手に混じってプレーして、アジアでもどこでもいいからプロになってやろうと、シンガポール行きを即決しました。

写真提供:下野淳

ターニングポイント、ボランチとしての適性

当時は、契約選手たちと学生選手たちの実力差がかなりあって、学生選手が試合に出場するケースは稀でした。それでも大きなチャンスだったので、プレシーズンから必死にやりました。契約選手の中にはJリーグからきた選手や、アジアにアピールしにきた選手がいて。実際に当時の契約選手たちの大半が、その後アジアでプロキャリアを積んでいます。

僕自身は、日本の3軍からやってきた学生選手でしたので、最初はまったく期待されていませんでしたが、チーム練習が始まってから少し状況が変わってきたんです。当時の鳴尾直軌監督が、契約選手も学生選手も分け隔てなく、ヤル気があって頑張れる選手を使う方針だったんです。

JAPANサッカーカレッジに入学してから、僕はどういう状況下でも必死に戦うプレースタイルに変わっていました。シンガポールにきて契約選手たちに混じっても、絶対にプレーでは負けられないと覚悟を決めました。これが鳴尾さんの目に留まったようで、Sリーグの開幕戦から使って貰えたんです。

その後も、試合に出たり出なかったりが続きましたが、最後のクールはすべて先発フル出場しました。それもあって、2年目もシンガポールでプレーするように、と是永大輔代表からお話しを頂き、そのまま残ることになりました。

学生選手として迎えた2年目は大きなターニングポイントになりました。監督に杉山弘一さんが就任されて、それまで知らなかった多くのことを学びました。その上でボランチとして使って貰えるようになりました。ボランチの選手としての適性は、杉山さんが見出してくれたんじゃないかと思っています。

3年目は、JAPANサッカーカレッジを卒業して契約選手としてプレーしました。学生選手がそのまま契約選手になったのは、僕が初めてのケースだったと思います。この頃にはSリーグ選抜にも呼んで貰えるようになっていました。そして、4年目の2012年シーズンが終わった時点で、ローカルクラブから獲得のお話しがくるようになり、移籍を検討することになったんです。

Sリーグのローカルクラブへの移籍劇

いくつかの問い合わせがチームに届いていたようですが、具体的なオファーに進展したのはウッドランド・ウェリントンだけでした。それまでの4シーズンで何度も対戦していた相手なので、プレーのイメージは湧いていましたし、監督さんが僕を評価してくれていたことは、風のうわさで耳に届いていました。

結局、他のお話しが消えて行ったこともあって、ウッドランドに絞って交渉して貰いました。小さなクラブだったので、条件は良くなかったのですが、次に行く場所を決めないと、僕の場合はその先はないだろうから、提示されたハーフシーズンの契約書にサインしました。

半年後には無職になる可能性もありました。でも、結果を出せば契約を延長してくれると信じて必死にプレーしました。その後、残りのハーフシーズンと来シーズン終了までの契約を勝ち取りました。しっかりと活躍を評価してくれて条件も改めて貰えたので、僕は今後もできるだけこのチームで続けて行こうと思っていました。

この頃にもSリーグ選抜に呼ばれて、マレーシアのスランゴール州選抜との交流戦に出場しました。6万人の大観衆で埋まったスタジアムでプレーしましたし、サッカー選手としての価値を高められたと思います。でも、ウッドランドの財政が悪化したことと、Sリーグ自体が縮小する方向に向かったことで、チームがSリーグから突然撤退してしまったんです。

2シーズンだけの在籍でしたが、僕はウッドランドというチームで、プロサッカー選手として生きる術のようなものを身につけることができたと思っています。チームにいる日本人は僕だけという環境で、コミュニケーションはすべて英語に、ピッチでもこれまで続けてきた日本風のサッカー感が通用しなくなりました。

サッカーの強くない国で助っ人外国人としてプレーするには、日本風のサッカー感を落とし込むのは本当に難しいと思います。生きるためには監督がやろうとする戦術を受け入れて、契約を全力で全うするべきです。実際には、そうじゃないんだよなぁと思うことはたくさんありましたが、僕は生きて行くためにチェンジしました。(つづく)

写真提供:下野淳
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