成田空港に勤務する日本人の父と、フィリピン人の母を持つ大友慧は、地元の街クラブでサッカーを始めた。ある時、横浜フリューゲルスが地元の街に普及活動に訪れる。大友は初めて生で見るJリーガーの勇姿に憧れて、将来の夢を抱いたのだと言う。
地元の小学校を卒業した大友は、鹿嶋市内の中学校に入学すると同時に、鹿島アントラーズのジュニアユースに加入する。Jクラブの下部組織で本格的な指導を受け、高校進学と同時にユースに昇格する。大友の一学年上の5人がトップ昇格していたこともあり、夢のプロ入りは現実味を増していた。
しかし、大友が高校卒業後に入団したのは、ひとつ下のJ2を主戦場としていたベガルタ仙台だったーーー。当時のプロ入りの経緯から、東南アジアのクラブを渡り歩き、母親の祖国フィリピンで現役を続ける現在に至るまでを、大友は表情豊かに語り始めた。(フットボールライター・池田宣雄【マニラ】)
大友慧
J2の舞台を見下していた勘違い野郎
アントラーズのジュニアユースに入るまで、遊びの感覚でサッカーをしていたので、指導される中でプレーすることにストレスを感じていました。ユースに上がってからは、プロになれるかなれないかという環境だったので、それはもうこと細かく指導を受けました。
ユースの練習は夜やるのですが、トップのアシスタントコーチでサテライトの監督だった関塚隆さんが、時々僕らの練習を見に来ていまして。ちょっとでもおかしなプレーをすると、その場で指導されたり、後で呼び出されて説教されたりしていました。
なんだかうるさいし、おっかない人だなぁと思っていましたけど、今思えば、ユースのガキどもに対しても、トップのコーチが熱心に指導してくれていた訳ですから、僕は本当に恵まれた環境にいたということですよ。まぁ、自分でもビックリするくらいの馬鹿だったので、なにも学んでいないのですが。
トップの練習にはしょっちゅう行っていましたし、サテライトの試合に補充で行くこともありました。でも、実力的にはトップへの昇格は難しいのかなと思うようになっていました。
ある時、フロントの人から関西の大学に進学するお話がありました。でも、僕はプロを目指していたので、大学行きの件はお断りして、プロのテストを受けさせてくださいとお願いしました。それで、いくつかのJ2クラブのテストを受けさせてもらいました。
最終的に、J2のベガルタ仙台と契約することになりました。ちょうど、一学年上の2人がレンタル移籍で行くことになって、鈴木満さんがベガルタと色々話し合っていたタイミングで、僕の話もしてくれたという感じでした。
プロになる夢は叶いましたけど、J2に行ったら上手くなれないんじゃないかと思い込んでいて、ブラジル行きを真剣に考えたり、0円で良いからJ1でプレーしたいとか、契約書にサインする直前まで他の場所を探っていました。当時の僕は、まさに空前絶後の勘違い野郎でしたね。

ゴールに突進するイノシシがJ2で光り輝く
ベガルタでは、アントラーズからレンタルで来ていた先輩の近くに住んで、先輩の車に乗せてもらっていました。キャンプが始まってから間もなく、ドリブルでゴールに突進しまくっていたら、清水秀彦監督に気に掛けてもらえるようになりました。
ある時、鳥かごの練習でボールを追い回していると、清水さんがライフルを構える格好で「パーン!パーン!」って僕を撃ってきて、清水さんも選手たちも大爆笑してて。なにかと思ったら「お前はイノシシだからな!もっと追い回せ!」って茶化してくれて。高校卒の選手は僕だけだったので、かわいがってもらえました。
リーグ開幕の時は怪我で出遅れましたが、怪我から戻ってすぐにベンチ入りしました。その後は、スーパーサブ的に後半途中から出場して得点に絡むようになって、7月以降はスタメンで使ってもらえるようになりました。
ベガルタではツートップの一角で起用されました。僕はサイドのスペースからゴールに向かうスタイルだったので、ゴールとディフェンダーを背にした状態からのプレーについては、こと細かい指導を受けました。
全体練習の後に清水さんの個人指導があって、いろんな形からのシュート練習を繰り返しました。ディフェンダーを背負った時に、どういう身体の当て方をすれば良いかとか、知らないことをたくさん教えてもらいました。
J2でプレーした最初の2年間で、リーグ戦だけでも77試合に出場しました。ナビスコカップとか天皇杯も含めたら90試合以上になりますね。自分のプレーの幅も広がりましたし、チームもJ1に昇格することが決まって、3年目のJ1でのプレーを楽しみにしていました。

J1戦士たちの加入と自身のコンディション不良で
J1に上がった2002年は状況が一変しました。すでにヴェルディから岩本輝雄さんが来ていた上で、サンフレッチェから森保一さん、マリノスから小村徳男さん、レッズから福永泰さん、アビスパから山下芳輝さん、トリニータから片野坂知宏さんとか、経験豊富な選手たちがやって来ました。
みなさん本当に良い人たちで、僕もかわいがってもらいましたが、上でやってきたベテラン選手たちと、下しか知らない20歳の僕では、プロサッカー選手としての「心・技・体」のレベルが比べものになりません。
試合の準備にしても、普段の生活習慣にしても、言われなくても当たり前にできる選手と、なにひとつ知らない僕のような選手が同じピッチに立った訳です。それはもう火を見るよりも明らかな、コンディションの違いが存在しました。
開幕からベンチにも入れない状況が続いて、日韓ワールドカップの中断期間には、提携していたサンパウロFCの練習に参加するためにブラジルに行かされました。同世代のジュリオ・バチスタとか、ルイス・ファビアーノとかいましたけどね。
プロサッカー選手としてのルーティーンがない僕には、パフォーマンスのバラつきがあったので、この年は全部含めても10試合出てないと思います。それで、全日程が終わってからフロントの人から電話があって、J2のサガン鳥栖へのレンタル移籍の話を聞きました。

レンタル移籍からの完全移籍、そして戦力外に
正直、4年目もベガルタでやりたかったのですが、残るならB契約になると言われたのも納得いかなくて、清水さんと直接話させてほしいと答えました。清水さんは「サガンで試合に出てからベガルタに戻って来い」と言ってくれたので、とりあえずサガンに行くことにしました。
サガンではあまり良い思い出がありません。自分自身が舐め腐っていたのが原因ですが、監督とも選手たちともやり合ってしまいましたし、途中交代でベンチに戻った時にユニフォームを叩きつけるとか、許されないことを平気でやってましたから。
サッカーの内容より、通っていた食堂のおじさんとおばさんに優しくしてもらったことと、僕を家族全員で応援してくれた方にお世話になったことが、印象に残っています。
その年にベガルタもJ2降格が決まって、清水さんも更迭されてしまいました。レンタルに出ていた僕は完全に蚊帳の外の扱いになっていて、一度も会ったこともない新しく来たフロントの人から電話が掛かってきて、いきなり放出の話をされました。
「いいか、よく聞けよ。横浜FCから完全移籍の話が来てるから、それで良いな」と切り出されて。知らない人によく聞けよとか言われて腹が立ちましたけど、リティさん(ピエール・リトバルスキー監督)が僕のことを評価してくれていたことは耳に入っていましたし、もうベガルタには居場所がなかったので移籍を決意しました。
横浜FCでは2年プレーしました。城彰二さんの家のそばに住んでいたので仲良くさせてもらいました。リティさんの練習メニューも工夫があって楽しかったのですが、リティさんが成績不振で更迭されてから状況が変わり、僕はいつものやさぐれ病を発症して、契約の更新はなくなりました。
その時まだ24歳だったのですが、僕は完全に行き場を失いました。今思えば、上で絶対にやれるという志だけは高いのに、自己管理も周りへのリスペクトもできない幼稚な選手でした。毎日シュークリーム食べてコーラ飲んで。どうしようもない馬鹿でした。(つづく)