Jリーグで5シーズン。満足な結果を残すことができなかった杉本裕之が新天地に求めたのはタイリーグだった。未知なる国での挑戦、2週間でのクビ宣告、4ヶ月の給料未払い。その中で見つけた本当の自分のサッカーへの気持ちとは。2018シーズンを終えた杉本に今までのサッカー人生を振り返ってもらった。
杉本裕之
大学卒業後はバイトをしながらJリーグを目指す
卒業後はJリーグに行くことができなかったので、ザスパ草津チャレンジャスというザスパ草津のセカンドチームに入団しました。チャレンジャスはプロではないので仕事をして生活費を稼がなくてはいけません。
当時働いていたのは中華料理屋。チームが斡旋してくれた職場だったのですが、そこで配膳の仕事をしていました。その時はバイト自体が初めてだったのでしんどいと思うこともありましたが、プロになりたいという気持ちが強かったので続けることができました。
Jリーグへ
チャレンジャスでは半年間プレーしました。そしてそこからトップ昇格し、草津では2009シーズンから2012シーズンまでプレーしました。出場したのは4シーズンで45試合ですね。2012シーズンは18試合に出場しましたが、そのシーズンでザスパとの契約は満了しました。
当時は何をするにも一杯一杯で、プレッシャーや緊張で良いパフォーマンスなんて全然出せませんでした。せっかく出場した試合で決定機を外した時なんて、穴があったら入りたい気分でしたね、今でもよく覚えています。
その年の年末にJリーグ合同トライアウトに参加しました。そこで声をかけてもらいFC岐阜に入団することになったんです。
実はこの時にある人から『スペイン3部のクラブに行ってみないか』と誘われていたんです。でも1週間くらいどうしようか迷っていると、『もう遅い』と言われてしまって。
その時まで海外でサッカーするなんて考えたことなかったんですが、初めてそんな選択肢もあるんだなと思いましたね。

タイリーグへの挑戦
結局FC岐阜では活躍することができず、1年間で契約満了となりました。それでまた合同トライアウトに参加したんですが、そこであるエージェントに声をかけられたんです。『タイリーグにチャレンジしてみないか』と。
当時タイのサッカーについては全く知りませんでした。でも、以前スペイン挑戦の話の時は躊躇している間にそのチャンスを逃してしまった。だからこのタイミングを逃したら絶対に後悔すると思い、すぐに行きたいと答えたんです。
自分はJリーグで結果を残すことができませんでした。5年間で通算出場は50試合、得点は3得点。だから海外挑戦することに迷いはありませんでした。何よりこのタイミングしかない、とその時は感じたので。
タイ1年目
タイに来て最初に契約したクラブは2部のTTMカスタムズというクラブでした。
Jリーグでやっていた時より良い条件での提示でしたし、タイのサッカーについても全く知らなかったので、とりあえず良いかなという感覚でした。
最初は無意識にタイのサッカーを舐めてしまっていたと思います。なかなか思うようなプレーもできませんでしたし、チームメイトとうまくコミュニケーションもとれませんでした。
でもチームメイトに元日本代表の黒部光昭さん、山内祐一さんという二人のベテラン選手がいたので、彼らには本当に助けられました。初めての海外挑戦で彼らと一緒にプレーできたのは本当に心強かったですよ。
1年目は外国人が7人もチームにいたんです。試合に出られるのは5人だったので、ローテーションで外国人選手が使われていました。結局、そういった状況で満足できるパファーマンスも出すことができず得点も3点のみ。怪我なども重なり1年でクビになってしまいました。
でもそれは当然ですよね、外国人助っ人としての仕事は全く果たせませんでしたから。

香港では2週間でクビ宣告
タイ1年目で良い結果を残すことができなかったので、そんな自分を欲しがるチームがあるわけありませんでした。当然チーム探しは苦労しましたね。
タイでのチーム探しに見切りをつけ、香港リーグのクラブにも行き契約を交わしましたが、そこではたったの2週間でクビを宣告されてしまいます。1試合もプレーしていなかったんですが、チームの幹部が求めていた選手ではないということだったみたいです。仕方がないですが、メンタル的にもガクッと来ましたねあれは。
その後、タイに戻りタイ国内でチームを探しましたがチームを見つけることができませんでした。それで一度日本に帰国することにしたんです。
新天地はタイ3部
2016年、タイに戻りトライアルを受けました。それは数百人もの選手が集まるトライアルだったんですが、そこでチャムチュリユナイテッドという3部のクラブからオファーを頂き契約することになりました。
正直に言って3部でプレーすることに対しては抵抗がなかったといえば嘘になります。でもそんなプライドよりも『サッカーがしたい!』という気持ちが強かったんですよね。もう1年近くプレーしていませんでしたし、サッカーがない生活は何よりも自分にとって辛いことでした。
それまで自分はサッカーしかして来なかったから、当たり前過ぎて気づきませんでしたが、サッカーがなくなったら自分には何も残らないのだとその時気づかされました。
(続く)