母親の祖国で現役を続ける元Jリーガーの軌跡 後編


写真提供:大友慧

横浜FCとの契約を満了した大友慧は、ドイツの地域リーグを戦うクラブに加入して、プロクラブへの移籍のチャンスを伺うことになる。この10ヶ月に及んだドイツ滞在は、日本でのプロサッカー選手としての日々を検証する機会でもあった。

 その後大友は、日本の下部リーグでのプレーを三度挟みながら、インドネシア、ミャンマー、タイ、フィリピンで、外国人助っ人選手としてキャリアを積み、現在は母親の祖国フィリピンのパスポートを取得して、ローカル選手としてフィリピンリーグを戦う日々を送っている。

 湘南ベルマーレとの提携を発表して、名称をダヴァオ・アギラス・ベルマーレに変更したクラブで現役を続ける大友は、これまでとこれからのことを真剣な眼差しで語り続けた。(フットボールライター・池田宣雄【マニラ】)

大友慧 Satoshi Erasmo Otomo

1981年生まれ。鹿島アントラーズユース出身。2000年にベガルタ仙台(J2)に入団してJ1昇格に貢献する。サガン鳥栖(J2)へのレンタル移籍を経て、横浜FC(J2)に完全移籍。06年にライムスバッハ(ドイツ)でプレーの後、TDK秋田(東北リーグ)でJFL昇格の立役者となり、07年にFC岐阜(JFL)加入後にJ2昇格を果たす。10年からプルシブ・バンドン、ボンタン、ラモンガン(共にインドネシア)、エーヤワディー(ミャンマー)、トラート(タイ)、グローバル(フィリピン)などアジアを渡り歩く。15年途中から横河武蔵野(JFL)でプレーの後、16年のJPヴォルテス(フィリピン)移籍後にフィリピンパスポートを取得。18年からダヴァオ・アギラス・ベルマーレ(フィリピン)に所属している。マニラ在住。

ドイツの地域リーグに身を投じて

高校時代の先輩を頼って、海外でのチャンスを模索しました。選択肢はドイツとアメリカ。チャンスの数と滞在期間の長さを考慮して、ドイツのアマチュアクラブに行くことにしました。

ザールランド州という地方のリーグでプレーしながら、ブンデスリーガの下部クラブのテストを受けるという話でしたが、ちゃんとお金をもらえるクラブのテストは、なかなか受けることができません。ひとつ、3部に昇格する可能性があったクラブのテストに受かったのですが、その話も流れてしまって。

貯金を食いつぶしながらの毎日でしたが、これまでの自分を反省する貴重な時間でもありました。何と何がダメだったのか毎日考えていました。お金をもらってプレーすること、生活習慣のこと、そして周りへのリスペクトのこと。反省すべきことが次から次へと浮かんできました。

テストのチャンスがなくなったので、ひとまず日本に戻っていたら、横浜FCの時にお世話になっていた人から、東北リーグのTDK秋田でのプレーを勧められました。リーグ終了後に地域決勝大会があって、これに勝てばJFLに昇格できるから力を貸してくれと。

その年の地域決勝には、TDK秋田の他にFC岐阜、Vファーレン長崎、ファジアーノ岡山も進出していて、元Jリーガーが何人かいるみたいだし、少しだけお金も出るということだったのでチームに合流しました。

この地域決勝を制してJFL昇格に貢献したのですが、翌年の給料の提示額が納得できなかったのでチームから離れることにしました。それで次の場所を探していたら、対戦したFC岐阜(TDK秋田と共にJFL昇格を決めていた)がJリーグを目指していて、僕のことを評価しているという話を聞きました。

それで関係者の人を通じて売り込んでみたら「ぜひ来てくれ」ということになって、FC岐阜に行くことになりました。その後3年間在籍してJ2昇格も果たしましたが、僕自身は体調不良もあって活躍できませんでした。

もらった給料から自分の身体にも投資して、いろんな体調管理を試してみたのですが、経験値が足りなくて成功と失敗を繰り返していました。Jの舞台に戻れて嬉しかったのですが。

写真提供:大友慧

東南アジア各国での過酷な境遇

その後はJリーグの選手会に相談して、東南アジアで助っ人選手としてプレーする場所を探しました。それでインドネシアでトライしてみようという話になって、ジャカルタに向かいました。

ジャカルタの空港では迎えの人が現れず、何日か部屋で缶詰めになったり、食事がいつもフライドチキンだけとか、頭にきて日本の代理人に文句を言いましたが、なにも改善はされませんでした。

今となっては、そんなことはアジアでは日常茶飯事なことなので、文句を言うのは無駄なことだと理解できますけど、当時は代理人の怠慢だとしか考えられなくて、お互いに不愉快な思いをしていました。

インドネシア側の代理人は、結構影響力のある曲者のじいさんで、最初に加入したプルシブ・バンドンは、一番人気のあるクラブでした。テストで韓国人の選手と枠を競わされましたけど、僕が対戦相手のインドネシア代表の選手をチンチンにして、すぐに話をまとめてくれました。

結局、インドネシアでは3つのクラブでプレーしましたが、全部曲者のじいさんが移籍先を決めました。未払いがあったり、クラブが消滅したり、怪我した途端にクビ宣告されたり、色々ありましたけど、最後は怪我を理由に見放されて終わりました。

その後、それぞれ別の代理人を立てて、ミャンマーとタイでもプレーしましたが、あまり良い思い出はありません。生活環境が悪かったり、代理人から多額の要求があったり、なにひとつ仕事してくれなかったり、チームのボスからイジメを受けたり、プレー以外のところでは散々な目に遭いました。

写真提供: 大友慧

母親の祖国に向かった理由

一旦日本に戻って、フィリピンのグローバルでプレーしていた佐藤大介に連絡してみました。大介は僕と同じフィリピンハーフの選手で、すでにフィリピンパスポートを取得済みで、フィリピン代表にも選出されていました。

僕もフィリピンパスポートが取れるかもしれないので、グローバルでプレーすることはできないだろうかと、星出悠さんにも相談してみたところ、クラブからパスポートの取得を前提としてのオーケーが出たので、とりあえず外国人枠で獲ってもらいました。

パスポートの申請には多くの書類を揃えなければならないし、弁護士とかの手も借りることになります。僕にはコネがないこととお金を騙し取られたことで、うまく進められませんでした。グローバルからも、いつまでも外国人枠で使うことはできないということで、契約解除になりました。

僕がプレーできる場所は減る一方でしたが、帰国後すぐに、JFLの企業チームの監督から連絡があって「チームがないならウチでやれよ」と誘われました。横河武蔵野FCでした。完全に無給の条件でしたが、なにもしないでいるのも辛かったので入れてもらいました。

ここでは在籍期間が短かったし、僕も怪我でほとんどプレーしていないのですが、仕事やバイトをしながらサッカーを続ける選手たちの姿を見て、プロの立場についてあらためて考えさせられました。簡単に諦める訳にはいかないと思いました。

その後、JPヴォルテスのボス永見協さんから声が掛かり、またフィリピンでプレーするチャンスが出てきました。パスポートが取れたらローカル選手として登録するから、それまではチームをサポートしてほしいと言ってくれたので、再びフィリピンに向かいました。

結局、パスポートの取得には1年半も掛かってしまいましたが、2017年の6月にフィリピンリーグの選手登録が完了しました。長いブランクがありましたが、練習には参加していたので、なんとかプロサッカー選手としてピッチに戻ることができました。

もう若くないので、以前のようにゴールに向かってドリブルで突進することはできません。でもトップスピードとかクイックのアジリティは落ちてないので、失わないプレーとか人を使って走らせるとか、プレースタイルを変えました。経験でカバーできることもたくさんあります。

写真提供:大友慧

フィリピンのローカル選手として現役続行

フィリピンリーグにローカル選手として登録されるようになったことで、外国人枠の選手ではなくなりました。早速、新興クラブのダヴァオ・アギラスから良い条件でのオファーがあったので、移籍することにしました。

この10月で37歳になりましたけど、フィリピンでは年齢だけで判断されることはないので、もう少し現役を続けようと思っています。もちろんプロである以上、いつ切られてもおかしくないのですが、この国のサッカーに足りないことを、同じ選手の立場でいるうちに伝えることがたくさんあるので。

いずれ現役から退いたとしたら、指導者としてではなくクラブのマネジメントの方で貢献してみたいと思っています。日本を含めて、多くのクラブを渡り歩いてきたので、引き出しは結構あると思っています。

つい先日のことですが、僕が所属しているダヴァオが、J1の湘南ベルマーレと提携しました。ウチのボスは政財界に人脈のある有名なビジネスマンです。提携の話もあっという間に決まりました。そういえば、僕のベガルタでのプロ入り初ゴールは、たしかベルマーレ戦でしたね。

フィリピンでJリーグのクラブと関わりあうことになるとは、僕自身思ってもいませんでした。長く現役を続けていると、本当にいろんなことがありますね。(了)

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