あとひとつ勝てば日本に凱旋したストライカーの話 前編


Photo by Ceres FC

2018年1月30日、極寒の天津オリンピックスタジアムで開催されたACL2018のプレーオフに、かつてJリーグの舞台に立っていた上里琢文が出場した。このプレーオフを制した者たちが、ACL2018のグループステージに駒を進めるというビッグゲームだ。

 この一発勝負のプレーオフにシードされていたのは、前年の中国スーパーリーグで優勝争いを演じた天津権健だった。名将パウロ・ソウザを招聘して、代表クラスの中国人選手たちを集め、パト、ヴィツェル、モデストを爆買い補強していた金満クラブだ。

 敵地天津に乗り込んだのは、その一週間前に行われたACL予選で、オーストラリアのブリスベン・ロアーを破ったフィリピン王者のセレス・ネグロス。上里はフィリピンリーグでの過去二年間で33ゴールを上げる活躍が認められ、アジアの大舞台を控えていた王者セレスに加入していた。(フットボールライター・池田宣雄【マニラ】)

上里琢文 Takumi Uesato

1990年生まれ、沖縄県宮古島出身。小学5年の初選出以来、沖縄県トレセンとナショナルトレセンの常連となる。宮古高校時代に沖縄代表として兵庫国体(少年の部)に出場し全国優勝を果たす。高校九州選抜やU-18高校選抜に選出されるなど頭角を現し、2009年にJ1京都サンガに加入。2011年途中からJFLのFC琉球、2014年からオーストリアのSVアラーハイリゲン、2016年からフィリピンのJPVマリキナでプレー。2018年にフィリピン王者のセレス・ネグロスに移籍して、ACLプレーオフやAFCカップに出場するなどアジアの大舞台に立つ。現在はJPVマリキナに所属。マニラ在住。

フィリピン王者セレス・ネグロスへの移籍経緯

ヴォルテス(現在のJPVマリキナ)でゴールを量産していた頃から、セレスでやってみたいと思っていました。フィリピンでは他を圧倒する戦力で優勝争いしていましたし、セレスに行けばアジアの大会にも出場するチャンスがありましたので。

セレスとはリーグ戦で何度も対戦していたので、僕たちは彼らの弱点を知っていました。なので、ちょっとやり難い相手の得点源として、ヴィダコヴィッチ監督は僕をマークしていたようです。監督とはまったく交流がなかったので、ツイッターで監督のアカウントを見つけてダイレクトメールしてみたら、すぐに会ってくれることになったんです。

このカフェのまさにここのテーブルで(と言って上里は隣のテーブルを指差した)監督と会って、来季はセレスでやりたいと伝えました。シーズンが終わったタイミングで正式なオファーがあって、フィリピン王者への移籍が決まりました。

格下のチームからの移籍だったので、助っ人外国人選手としてはそんなに良い条件ではなかったのですが、僕としてはここ数年の状況から比べたら結構良い条件でした。チーム内での競争は激しくなりますが、リーグを連覇して、アジアの大会ではアジア枠選手として大暴れしてやろうと思っていました。

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ACLプレーオフの大舞台に立った日本人助っ人

セレスは、ACLの予選1回戦から勝ち進めば本大会に出場できることになっていました。その頃はまだどこのグループでどんな対戦相手になるのか知らなかったのですが、Jリーグのチームと対戦する時に日本に凱旋できることはわかっていたので、絶対に勝ち進むつもりでした。

まずミャンマー王者を敵地で破って、オーストラリアでAリーグのチームを相手に奇跡を起こしました。まだ始動して間もない1月でしたが、次の天津はACLプレーオフが最初の公式戦だと聞いていたので、絶対にチャンスはあると選手たちで盛り上がっていました。

実際に、天津の中国人選手たちとは対等に戦えていたのですが、やっぱり、パトとかヴィツェルとか2得点を許したモデストの3人はピッチでは別格でしたね。彼ら3人に試合をコントロールされてしまって。あとひとつ勝てば日本に凱旋できたわけですから、ちょっと悔しかったですね。

試合の後に知ったのですが、勝てば柏レイソルと同組になってたんですよ。日本に凱旋することは叶わなかったですけど、AFCカップで結果を残せば良いアピールになりますので、すぐに気持ちを切り替えました。

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ナショナルトレセンの常連が沖縄に残った理由

小さい頃から宮古島でボールを蹴り始めて、小学5年生の時に初めて沖縄県のトレセンに呼ばれました。呼ばれ始めた頃はテストとかで少し緊張していましたが、ほぼ毎月のように呼ばれて沖縄本島に通っているうちに、僕はヤレてるんだなと思えるようになりました。

でも、ひとりだけ敵わないヤツがいまして。それが流経大柏に行くことになった田口泰士でした。田口は早生まれだったのでひとつ下のチームでしたけど、沖縄ではひとつ頭抜けた存在でしたね。中学生の頃から、僕も田口もナショナルトレセンに呼ばれるようになって、田口はその後、流経大柏でインターハイと冬の選手権で全国制覇を果たしました。

僕も冬の選手権には絶対に出たかったので、九州の強豪校に行くつもりでした。実際に鹿児島の高校に行くことが決まり掛けていましたが、練習参加させてもらった時に、上級生相手に何点も決められたことと、丸坊主頭に名前入りのTシャツで練習するのが嫌になってしまって。

沖縄から冬の選手権を目指すこともできるし、当時の沖縄トレセンで、加藤久さんの指導を受けていたこともありました。トレセンの延長線上には国体出場のチャンスもあったので、僕は地元の宮古高校に行くことにしました。この頃は変な自信がついてしまっていて、沖縄に残っても全国大会に行けるだろうし、将来プロになれると信じて疑わなかったです。

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沖縄の高校生がJリーガーになった日

高校1年生の時に、国体少年の部の九州予選を勝ち抜いて、本大会でも勝ち進んで千葉代表と同率優勝しました。2回戦でナショナルトレセンで一緒だった齋藤学のいる神奈川代表と対戦する予定だったのですが、彼らが1回戦で負けてしまって。選手たちも周りの関係者にとっても想定外の全国制覇でした。

高校3年生の新チームで戦う県の新人戦で優勝して、九州大会に出場しました。その後のインターハイ予選と冬の選手権予選では負けてしまいましたが、高校九州選抜やU-18高校選抜に選ばれて、大迫勇也とも一緒にプレーしました。

関西のJ1や関東のJ2のチームから練習参加のお話が来るようになったので、京都サンガのGMに就任していた加藤久さんに報告しました。練習に参加しますと伝えたところ、「お前は阿呆か!今すぐ京都に来い!」と一喝されまして。

練習参加の予定日に軽く京都で軟禁されて、京都サンガに加入させてもらうことになりました。流経大柏に行った田口も名古屋グランパスに決まっていたので、高校サッカー界で脚光を浴びていた田口と、また同じ場所に行けることが嬉しかったですね。大好きなサッカーでお金がもらえる喜びを噛みしめながら、京都サンガと契約しました。

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プロの洗礼、公式記録は3試合出場ノーゴール

高校の単位が足りなくて、入団発表を欠席するハプニングに見舞われましたけど、なんとか卒業して京都での寮生活が始まりました。キャンプ前の練習でそれまでテレビで見ていた選手たちと対面して、僕もやる気に満ち溢れていました。

でも、キャンプが始まってすぐにプロの洗礼を浴びました。午前中のランニングで体力を消耗してしまい、午後の実戦形式の練習でも息が上がりっぱなしで、ボールがまったく収まりません。クサビのパスが入ってきても、背後のディフェンダーのプレッシャーに負けて、トラップもまともにできないんです。

やっと収めたとしても、アウトサイドで叩くと怒鳴られるし、飛び込んでくる味方の選手たちの姿が見えてないとか、体力、技術、視野、判断とか、プロではまだまだ通用しないレベルだったことがわかりました。

1年目は練習について行くのが精一杯という感じで、リーグ戦終盤までベンチにも入れない状況が続きました。全体練習の後に、森岡隆三コーチのマンツー指導を受けながら、前の方だけじゃなくてボランチの練習にも取り組みました。

リーグ戦の残留争いの中で、残り5試合のところで初めてメンバー入りして、3試合に途中出場しました。試合では一番前で使ってもらいましたが、ゴールは決められなかったです。そしてこの3試合の出場が、僕のJリーグでの公式記録となりました。(つづく)

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