あとひとつ勝てば日本に凱旋したストライカーの話 後編


Photo by CERES FC

2018年10月21日、上里琢文が所属するJPVマリキナは、リサール・メモリアル・スタジアムで行われた国内カップ戦、コパ・パウリーノ・アルカンタラの準決勝で、ダヴァオ・アギラス・ベルマーレに大敗を喫し、今季の全日程を終了した。

 上里琢文の2018年は、まさに激動の一年間だったと言える。アジアの大会に出場するセレス・ネグロスの一員に加わり、あとひとつ勝てばACLの大舞台で日本への凱旋を果たすというところから、契約解除の憂き目に遭った後に、古巣JPVマリキナに復帰してシーズンを終えている。

 ACLプレーオフ敗退後に転じたAFCカップで3ゴール、フィリピンリーグでも4ゴールを上げるなど、王者セレスの上里琢文は、かつての輝きを取り戻していた。7月15日に想定外の契約解除通告を受ける、その日まではーーー(フットボールライター・池田宣雄【マニラ】)

上里琢文 Takumi Uesato

1990年生まれ、沖縄県宮古島出身。小学5年の初選出以来、沖縄県トレセンとナショナルトレセンの常連となる。宮古高校時代に沖縄代表として兵庫国体(少年の部)に出場し全国優勝を果たす。高校九州選抜やU-18高校選抜に選出されるなど頭角を現し、2009年にJ1京都サンガに加入。2011年途中からJFLのFC琉球、2014年からオーストリアのSVアラーハイリゲン、2016年からフィリピンのJPVマリキナでプレー。2018年にフィリピン王者のセレス・ネグロスに移籍して、ACLプレーオフやAFCカップに出場するなどアジアの大舞台に立つ。現在はJPVマリキナに所属。マニラ在住。

膝の外側靱帯の損傷、そしてJFLで起こした騒動

J1に残留を果たした二年目はもっと悲惨でした。キャンプ直前の練習で膝の外側靱帯をやってしまって、ほぼ一年間をリハビリに費やしてしまいました。周りからは給料泥棒だとイジられましたね。加藤久さんも途中で更迭されてしまって、結局チームもJ2に降格することになって。

J2に降格した三年目もベンチ外の状況が続いて、JFLのFC琉球にレンタルで放出されてしまいました。シーズン終了と同時に京都との契約も満了になって、琉球に完全移籍しました。給料も減りましたし、試合でもなかなか使ってもらえなかったんです。

この頃は、完全に舐め腐っていました。ある日、いつものようにベンチ外になって、スタンドから試合を観てる時に、それまでの鬱憤が心のどこかで爆発して、ハーフタイムに要らないことをツイートしてしまいました。それがファンを巻き込んでの騒動に発展して、僕はチームの活動から除外される事態に陥りました。

その後、契約満了となり琉球から去ることになりました。要らないツイートの件がひとり歩きしたこともあって、僕はもうプロの舞台には二度と戻れないだろうと思いました。

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欧州挑戦、次は膝の内側靭帯の損傷

琉球のチームメイトに、海外での挑戦をサポートするエージェントを知ってる選手がいて、早速連絡を取ってみると、オーストリアでトライアルがあるというお話だったので、行くことにしました。

現地の下部リーグの監督が、僕のプレーを気に入ってくれて、スロバキア1部の練習試合に出場するチャンスを作ってくれました。その監督から「日本人はコンタクトプレーができないと思われてるから、契約したければまず戦う姿を見せてみろ」と強く言われたので、僕は最初のプレーで相手を刈りに行きました。

普段からスライディングの練習をしていなかった僕は、相手と交錯することなく自爆してしまって、今度は膝の内側靱帯をやってしまったんです。僕を連れてきてくれた監督からも大目玉を喰らって、そのまま足を引きずりながら帰国しました。往復チケットはもちろん自腹でした。

その後、沖縄でバイトしながら半年間治療していたところ、オーストリア3部からテストなしのオファーをもらって、月給たったの200ユーロの半年契約という条件で契約しました。住む部屋と食事が支給されましたけど、物価が安い国ではないので完全に赤字でしたね。往復チケット代も出ませんでした。

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J2沖縄キャンプへの参加要請

元々、貯金するようなタイプではないので、もう自腹で渡航するのも厳しくなってきたので、この頃から沖縄でちゃんと働くことを真剣に考えていました。

一年以上所属先も決まらず、バイトしながら過ごしていると、沖縄でキャンプ中のJ2の2チームから、相次いで練習参加のお話を頂きました。もう二度とJリーグでプレーする機会はないと思っていたので、喜んでキャンプに合流しました。

でも、片方のチームからは予算不足で契約はできないと言われ、もう片方は理由もわからないままお話が流れてしまって。そして両方のチームの人から、琉球の時に問題になったツイッター事件のことを蒸し返されて。チームが決まらなかったことよりも、二年以上前の出来事を言われたことがショックでしたね。

もう手持ちのお金も足りず、海外に行くことも難しい状況だったので、サッカーを辞めて沖縄で働くしかないと思いました。それでアパートを借りて就職したんです。

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フィリピンでの現役続行に至る経緯

沖縄で普通に生活していたところ、知り合いになった人からちょっと信じ難いお話を聞きました。サッカーとは全然関係ないその人の知り合いが、フィリピンでプロサッカーチームをやってると言うんです。そんなお話がある訳がないと思っていたので、最初は真面目に聞いていませんでした。

でも、CVをフィリピンに送ると言うので、前に使っていたのをそのまま渡したら、フィリピンのオーナーの人が沖縄に来ることになったんです。わざわざ会いに来てくれたのは、永見協さんというヴォルテスのオーナーさんでした。

「お前のことはウチの日本人選手たちから聞いてるよ。フィリピンでやってみないか」と言って頂いて。マニラに寮もあって、食事の心配もないし、ちゃんと生活できる条件も出してくれたので、フィリピン行きを決意しました。

ヴォルテスは日本人オーナーが運営するチームで、フィリピンの1部を戦っていました。監督も外国人選手も日本人で、僕がプレーを再開する上では好都合な環境でした。チームに合流して、一年目は16ゴール、二年目は17ゴールを決めました。

それで、最初に(前編で)お話ししたセレス・ネグロスへの移籍につながります。

セレス・ネグロスからの契約解除通告

僕はちょっと英語が苦手なので、セレスでの英語だけの環境はちょっと辛かったです。監督が目指すサッカーは理解できていたのですが、監督の指示は感情的な口調で、いつも内容がブレていました。僕以外の選手たちも指示は聞くだけで、要求には従っていませんでした。

戦力が充実していたので、大きな問題にはならなかったですけど、英語で主張できない僕は徐々に出場機会を失って行きました。AFCカップではアジア枠で登録されていたので、すべて先発出場すると思っていましたが、メンバー外になることもありました。

7月15日に、移籍市場が開いたと同時に契約解除されてしまいました。監督からは「お前は俺の英語を理解できていない」と言われましたが、僕としてはそれ以前に、選手たちそれぞれが勝手にプレーしていたので、うまくフィットできなかったと感じています。

実は、5月くらいにタイのチームから声が掛かっていましたが、その時はセレスで続けることを選択しました。その後、リーグ連覇もほぼ確定していたし、今季終了まではセレスでプレーできると思っていたので、言い渡された時はちょっと驚いてしまいましたね。

セレスはその後、リーグ優勝は決めましたが、AFCカップの地区決勝戦で敗退しました。9月から始まったカップ戦でも、グループ最下位になってしまいました。

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来季を見据えての古巣JPVマリキナ復帰

セレスを契約解除になってから、インドネシアのチームから声が掛かりました。インドネシアの移籍期限ギリギリでのお話だったので、残念ながら間に合わなかったのですが、やはり、東南アジアでは名前の通ったセレスでプレーしたことが、声が掛かる要因のひとつだと思います。

フィリピンの移籍期限が終わる直前に、古巣のヴォルテスから今季終了までの復帰要請を頂きました。まだカップ戦が残っていましたし、沖縄にいた僕を拾ってくれた恩義もあったので、ヴォルテスに戻りました。

全日程が終了したら、一度沖縄に帰ってから次のチームを探します。もし日本で生活できるくらいの条件を頂ければ、また日本でプレーしたいですし、アジアの有力チームから良いお話があれば、挑戦したいと思っています。(了)

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